東洲斎写楽『宮城野』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
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東洲斎写楽『宮城野』 |
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30・中山富三郎の宮城野
この絵について、あえて女方を描いた写楽の作品中の最上位におきたい名品である。寛政六年五月の桐座上演の「敵討乗合話」で、親の敵志賀大七(第21図)を妹のしのぶ(第26図)とともに討つ役、宮城野がこの絵である。 中山富三郎は、「ぐにゃ富」と綽名された役者である。舞台上の動作、仕科、口跡などにぐにゃぐにゃした特徴があり、そこに女らしさを現わして当時人気のあった女方である。その芸風をもつ富三郎という役者が、これほど切実に絵画となって表現されていることは、まことに驚異であり、写楽の偉大さを感ぜずにはいられない作品である。 顔面描写にも、肩からの線にしても、左手のあげ方、指の描写にしても、すべて富三郎の芸風、性格を如実に描いているといえる。長い顔、つり上った眉、小さな眼、しゃくれた頬におちょぼ口、一見不思議さの中になにか華やいだ、なめらかな印象を与えている。そして全体の姿態からゆったりとした雰囲気があって見る人に和やかな気分にさせる。写楽の絵は、人間を描き、その芸風を描き、僅か半身でありながら舞台上の雰囲気までも感じさせるのである。 中山富三郎は、寛政から文政へかけてのすぐれた女方で、上方から下って四世松本幸四郎の門弟となり、女の情のこまやかさを表現すること無類といわれ、「ぐにゃ富」の緯名があった。文政六年九月、六十歳で没した。なおこの人は、三世高麗蔵の妹婿である。 ◆東洲斎 写楽(Sharaku Toshusai)◆ 1794年にデビューし、およそ10ヶ月間に約140点の錦絵を描いて、忽然と姿を消した江戸時代の浮世絵師。 『江戸名所図会』などで知られる斎藤月岑が、写楽の本名は阿波の能役者、斎藤十郎兵衛であると、 書き残しているが、十郎兵衛の実在が確認出来なかったことから、誰か有名な絵師の変名ではないかと いうことで、「写楽別人説」が唱えられた。 写楽の作品は、殆どが役者絵である。描かれた役者と役柄から上演時期が判明しており、 役者絵の発表時期は4期に分けられる。なお、すべて蔦屋重三郎の店から出版されている。 第一期が1794年5月(28枚)、第二期が1794年7月・8月、第三期が1794年11月・閏11月、第四期が1795年1月に 当たる。写楽の代表作とされるものは第一期の作品で、後になるほど生彩を欠いてしまう。 このほかに相撲絵なども残している。 画風はきわめて個性的で、勝川春草により始められた個性描写をさらに発展させ、鋭い観察眼をもって 俳優の表情や手の動きなどをとらえてそれを造形的に強調し、みる者に強く印象付ける。 しかし、当時は、その醜悪な程の迫真的な作風が俳優や観客の不評をかい、絵師としての生命を縮めた。 大正時代に、ドイツの美術研究家クルトが、写楽はレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と激賞し、 日本でも再評価されるようになった。 |
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