東洲斎写楽『川島冶部五郎』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
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東洲斎写楽『川島冶部五郎』 |
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16・二世大谷鬼次の川島治部五郎
この絵は、寛政六年七月、河原崎座上演の「二本松陸奥生長」に登場する敵役、川島治部五郎を描いた作である。この狂言の四立目富田介太夫を殺すのが、この川島治部五郎であるが、この場に現われる市川男女蔵の富田兵太郎(介太夫の子)の絵(第30図)も写楽にあって、これは二枚続となる絵であるが、この鬼次の一枚だけでも独立した名画であり、細判中の傑作の一つである。 背色の鼠地は暗夜が示され、その鼠地に対して、着付の濃い灰色(混緑のもある)と襦袢の紅は、何か陰惨な敵役を現わし、頬被りの手拭の白が、いかにも無気味である。右手をあげて兵太郎から顔多かくし、左手でぐっと柄頭を握った形。そして上半身から下肢へかけての力強い轡曲。また衣紋をあらわす描線の力強よさ。赤い眼隈と青い髭あとに彩られた顔面と横目に睨んだ表情の見事さ。内面的な写実と殺し場という雰囲気が、これ以上には描き得ない極致を見せている。 二世大谷鬼次は、三世大谷広次(第14図)の門人で、永助、春次をへて師の前名鬼次を継いだ。当時は実悪方の「上上白吉」の位にあった。寛政六年十一月には二世中村仲蔵の名をついで、写楽はこの襲名の時の狂言も描いているが、同八年十一月に三十六歳で没した。 ◆東洲斎 写楽(Sharaku Toshusai)◆ 1794年にデビューし、およそ10ヶ月間に約140点の錦絵を描いて、忽然と姿を消した江戸時代の浮世絵師。 『江戸名所図会』などで知られる斎藤月岑が、写楽の本名は阿波の能役者、斎藤十郎兵衛であると、 書き残しているが、十郎兵衛の実在が確認出来なかったことから、誰か有名な絵師の変名ではないかと いうことで、「写楽別人説」が唱えられた。 写楽の作品は、殆どが役者絵である。描かれた役者と役柄から上演時期が判明しており、 役者絵の発表時期は4期に分けられる。なお、すべて蔦屋重三郎の店から出版されている。 第一期が1794年5月(28枚)、第二期が1794年7月・8月、第三期が1794年11月・閏11月、第四期が1795年1月に 当たる。写楽の代表作とされるものは第一期の作品で、後になるほど生彩を欠いてしまう。 このほかに相撲絵なども残している。 画風はきわめて個性的で、勝川春草により始められた個性描写をさらに発展させ、鋭い観察眼をもって 俳優の表情や手の動きなどをとらえてそれを造形的に強調し、みる者に強く印象付ける。 しかし、当時は、その醜悪な程の迫真的な作風が俳優や観客の不評をかい、絵師としての生命を縮めた。 大正時代に、ドイツの美術研究家クルトが、写楽はレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と激賞し、 日本でも再評価されるようになった。 |
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