東洲斎写楽『祇園町の白人おなよと蟹坂藤馬』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
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東洲斎写楽『祇園町の白人おなよと蟹坂藤馬』 |
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4・ 三世佐野川市松の祇園町の白人おなよと市川奮右衛門の蟹坂藤馬
写楽は、第一期作品中で半身二人立の絵を五図描いているが、これはその内の一図で、やはり「花菖蒲文禄曽我」の狂言に登場する二人である。 写楽はこれら二人立半身図の上で、つねにいくつかの対照をとらえている。この絵にあっては、佐野川市松の痩せた顔と市川富右衛門のふとった顔、市松の上り眉と富右衛門の下り眉、市松のおさ形の眼と富右衛門の丸い眼、といったようにそれぞれの対照によって絵に変化を与え趣きを見せている。 この絵は無雑作に二つの肖像をよせ集めたような感じであるが、前述のいくつかの対比の妙によって巧みに連絡を見せている。市松の白人おなよを一人立で描いた絵は別にある(第18図)が、この絵ではむしろ富右衛門の描写を見るべきである。 この蟹坂藤馬という役は、悪人たちの方の人物であるが、たいした役でなく、富右衛門も上級の役者ではない。 写楽は、自分が写して興味のある役者であったら下級役者であろうとくだらない役であろうと、かまわずにとり上げて絵にしている。これも写楽の特徴であり、被写体に対する貫かれた写楽の主観の高さといえる。 落ちぶれた浪人者らしい藤馬という役柄の面ざしが実に的確に把握され、ヤゾウをきめた右手、袖の中に入れた右手の貧乏らしさ、これが市松の白人(私娼のこと)おなよの派手さと、これも画面の上の対照としての面伯さを見せている。 三世佐野川市松は、当時若女方として上位にあった。初代は石畳模様(俗に元禄模様という)の衣裳を用いて流行になり、市松模様の名を起した役者である。 ◆東洲斎 写楽(Sharaku Toshusai)◆ 1794年にデビューし、およそ10ヶ月間に約140点の錦絵を描いて、忽然と姿を消した江戸時代の浮世絵師。 『江戸名所図会』などで知られる斎藤月岑が、写楽の本名は阿波の能役者、斎藤十郎兵衛であると、 書き残しているが、十郎兵衛の実在が確認出来なかったことから、誰か有名な絵師の変名ではないかと いうことで、「写楽別人説」が唱えられた。 写楽の作品は、殆どが役者絵である。描かれた役者と役柄から上演時期が判明しており、 役者絵の発表時期は4期に分けられる。なお、すべて蔦屋重三郎の店から出版されている。 第一期が1794年5月(28枚)、第二期が1794年7月・8月、第三期が1794年11月・閏11月、第四期が1795年1月に 当たる。写楽の代表作とされるものは第一期の作品で、後になるほど生彩を欠いてしまう。 このほかに相撲絵なども残している。 画風はきわめて個性的で、勝川春草により始められた個性描写をさらに発展させ、鋭い観察眼をもって 俳優の表情や手の動きなどをとらえてそれを造形的に強調し、みる者に強く印象付ける。 しかし、当時は、その醜悪な程の迫真的な作風が俳優や観客の不評をかい、絵師としての生命を縮めた。 大正時代に、ドイツの美術研究家クルトが、写楽はレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と激賞し、 日本でも再評価されるようになった。 |
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