東洲斎写楽『けはい坂少将実はしのぶ』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
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東洲斎写楽『けはい坂少将実はしのぶ』 |
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26・松本米三郎のけはい坂の少将実はしのぶ
この絵は寛政六年五月桐座上演の「敵討乗合話」に登場する役で、、志賀大七(第21図)に父を殺され、その敵を討つ姉妹、宮城野としのぶ。そのしのぶがこの図である。敵を尋ねるため、けはい坂の少将という名で遊女となったその姿である。写楽が半身図で女方を描いた作の内では最も穏やかな描写である。それは米三郎が若く(この時二十一歳)、舞台上の米三郎の美しさそのままに写楽が描いたためと思われる。 つまり写楽は好んで異相を描くのではなく、その役者の舞台上の真を描くということを、この絵が証明しているといっていい。 また眼もとには真剣味があり、ロもとにはいいしれない真実味があるのも、敵を探す娘の心の内が描かれている。この絵は派手な色彩がまた特色である。小豆色に麻の葉模様の着付け、下着は薄紅に貝絞りの下着、紅の襦祥を懐ろから右手で見せた派手な色彩は、ただ派手でなく、大きな帯の黒の部分がひきしめている。さらに、左手にもった煙管の斜めの直線が、画面に安定を与えている。 松本米三郎は、上方の女方四世芳沢あやめの子で、二世松本幸四郎の弟子の松本小次郎の養子となって松本米三郎となった。寛政時代の人気女方であったが、文化二年六月、三十一歳で没した。 ◆東洲斎 写楽(Sharaku Toshusai)◆ 1794年にデビューし、およそ10ヶ月間に約140点の錦絵を描いて、忽然と姿を消した江戸時代の浮世絵師。 『江戸名所図会』などで知られる斎藤月岑が、写楽の本名は阿波の能役者、斎藤十郎兵衛であると、 書き残しているが、十郎兵衛の実在が確認出来なかったことから、誰か有名な絵師の変名ではないかと いうことで、「写楽別人説」が唱えられた。 写楽の作品は、殆どが役者絵である。描かれた役者と役柄から上演時期が判明しており、 役者絵の発表時期は4期に分けられる。なお、すべて蔦屋重三郎の店から出版されている。 第一期が1794年5月(28枚)、第二期が1794年7月・8月、第三期が1794年11月・閏11月、第四期が1795年1月に 当たる。写楽の代表作とされるものは第一期の作品で、後になるほど生彩を欠いてしまう。 このほかに相撲絵なども残している。 画風はきわめて個性的で、勝川春草により始められた個性描写をさらに発展させ、鋭い観察眼をもって 俳優の表情や手の動きなどをとらえてそれを造形的に強調し、みる者に強く印象付ける。 しかし、当時は、その醜悪な程の迫真的な作風が俳優や観客の不評をかい、絵師としての生命を縮めた。 大正時代に、ドイツの美術研究家クルトが、写楽はレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と激賞し、 日本でも再評価されるようになった。 |
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