東洲斎写楽『田辺文蔵』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
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東洲斎写楽『田辺文蔵』 |
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23・三世市川八百蔵の田辺文蔵
この絵は、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に登場する、石井兄弟の内、源蔵(第17図)が返り討ちにあう場で水右衛門(第25図)に太股を斬られて足なえとなり、貧にせまり、妻おしづ(第2図)は病み、自分は躄車にのるというような悲運の人である。 その寂しさが、そのやつれが、胸もとで組み合わされたいじけたような両腕にも、両肩の落ちた、そして猪首につき出された首筋の弱々しさにも、のびた月代にも、後れ毛にも、うつろのような眼にも十分に把握されている。また、衣裳は「肩入れ」といって、零落した男女に用いるもので、肩、袖口に別なきれをはぎ合せた着であって、この文蔵の貧しさが示されている。 色といえば、黒とべニガラ色の二色で、僅かに袖口に緑色がのぞいているにすぎない。これほど役柄とその雰囲気が描破されている絵も少ないといえよう。 三世市川八百蔵は、第7図の三世沢村宗十郎の実兄で、最初は女方で二世菊之丞の門弟で瀬川雄次郎といったが、安永六年立役となり、文化六年には助高屋高助と改めたが文政元年、七十一歳で旅で没した。 ◆東洲斎 写楽(Sharaku Toshusai)◆ 1794年にデビューし、およそ10ヶ月間に約140点の錦絵を描いて、忽然と姿を消した江戸時代の浮世絵師。 『江戸名所図会』などで知られる斎藤月岑が、写楽の本名は阿波の能役者、斎藤十郎兵衛であると、 書き残しているが、十郎兵衛の実在が確認出来なかったことから、誰か有名な絵師の変名ではないかと いうことで、「写楽別人説」が唱えられた。 写楽の作品は、殆どが役者絵である。描かれた役者と役柄から上演時期が判明しており、 役者絵の発表時期は4期に分けられる。なお、すべて蔦屋重三郎の店から出版されている。 第一期が1794年5月(28枚)、第二期が1794年7月・8月、第三期が1794年11月・閏11月、第四期が1795年1月に 当たる。写楽の代表作とされるものは第一期の作品で、後になるほど生彩を欠いてしまう。 このほかに相撲絵なども残している。 画風はきわめて個性的で、勝川春草により始められた個性描写をさらに発展させ、鋭い観察眼をもって 俳優の表情や手の動きなどをとらえてそれを造形的に強調し、みる者に強く印象付ける。 しかし、当時は、その醜悪な程の迫真的な作風が俳優や観客の不評をかい、絵師としての生命を縮めた。 大正時代に、ドイツの美術研究家クルトが、写楽はレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と激賞し、 日本でも再評価されるようになった。 |
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