東洲斎写楽『祇園町の白人おなよ』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
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東洲斎写楽『祇園町の白人おなよ』 |
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18・三世佐野川市松の祇園町の白人おなよ
この絵も寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」の登場人物である。これは第4図の半身二人立図に市川富右衛門の蟹坂藤馬とともに描かれている市松と同じである。この絵は、写楽の絵を漫画とし、醜くしとする人にとっての好例であるかもしれない。狐のような大きな顔、全く男のような目鼻立ち、それに対して派手な衣裳であり、島田髷(まげ)に笄(かんざし)、身体の矮少なところは、いかにも奇態である。 しかし、ここに写楽の芸術の実態を認めなけれぱいけない。それは、市松は女方であるということである。実際に女であれぱ、これは奇態であろう。しかし男である女方が女に扮した、その現実をこれほど描き得た作品は、多くの役者絵中に見ないところである。写楽以前の、また写楽以後の女方を描いた役者絵は、いずれも女方の顔をあたかも女性であるが如く美化して描いている。しかし実際において舞台の上の女方の顔はどうであろうか。 それは今日テレビの舞台中継の大写しの時、誰でもが感ずるところであろう。それでいながら舞台上の女方は実際の女以上に女らしい。それは芸の力である。この事実を考えれぱ、この狐のような顔に、顔に似合はない派手な衣裳は一向に気にならないのである。そして、市松の顔に迫真の描写力に驚嘆するのである。つまり男が女に扮するという、世界に類のない女方というものの真髄がここに描出されている。 むしろわれわれは、市松という役者を、これ以上に描くことが出来ないぎりぎりの描写を写楽に見るのである。派手な色彩の衣裳は、白人(私娼)という稼業であるからであり、さぞ舞台の上の市松は芸の力で艶麗であったろうと想像される。 市松については、4の図の解説で記してあるが、天明四年に三世市松となり、寛政十年には男役に転じて市川荒五郎となった。そして、文化十一年閏十一月、五十五歳で没した。当時は女方の「上上白吉」の位にあって、中堅の人気役者であった。 ◆東洲斎 写楽(Sharaku Toshusai)◆ 1794年にデビューし、およそ10ヶ月間に約140点の錦絵を描いて、忽然と姿を消した江戸時代の浮世絵師。 『江戸名所図会』などで知られる斎藤月岑が、写楽の本名は阿波の能役者、斎藤十郎兵衛であると、 書き残しているが、十郎兵衛の実在が確認出来なかったことから、誰か有名な絵師の変名ではないかと いうことで、「写楽別人説」が唱えられた。 写楽の作品は、殆どが役者絵である。描かれた役者と役柄から上演時期が判明しており、 役者絵の発表時期は4期に分けられる。なお、すべて蔦屋重三郎の店から出版されている。 第一期が1794年5月(28枚)、第二期が1794年7月・8月、第三期が1794年11月・閏11月、第四期が1795年1月に 当たる。写楽の代表作とされるものは第一期の作品で、後になるほど生彩を欠いてしまう。 このほかに相撲絵なども残している。 画風はきわめて個性的で、勝川春草により始められた個性描写をさらに発展させ、鋭い観察眼をもって 俳優の表情や手の動きなどをとらえてそれを造形的に強調し、みる者に強く印象付ける。 しかし、当時は、その醜悪な程の迫真的な作風が俳優や観客の不評をかい、絵師としての生命を縮めた。 大正時代に、ドイツの美術研究家クルトが、写楽はレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と激賞し、 日本でも再評価されるようになった。 |
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