守屋多々志『金太郎(額装)』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
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守屋多々志『金太郎(額装)』 |
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【仕様体裁】
版式:彩美版・シルクスクリーン印刷併用 用紙:和紙 製作:共同印刷(株)美術商品部 額縁:木製金泥仕上げ、アクリル付 重量:約3.3キロ (※)彩美版とは、画材の質感と豊かな色調を再現するために生み出された新時代の画期的な技法による複製画です。 最新のデジタル画像処理技術と高精度プリントにより、原画の持つ微妙なニュアンスや作家の筆遣いといった絵の鼓動までもが表現されております。 「彩美版」は共同印刷株式会社の登録商標です。 【作者略歴】 ◆守屋多々志(もりや・ただし)◆ 1912 岐阜県大垣市に生まれる。本名は正。 1930 岐阜県立大垣中学校(現・岐阜県立大垣北高等学校)を卒業後上京し、同じ岐阜県出身の前田青邨に師事する。 1931 東京美術学校(現東京芸大)日本画科に入学。在学中に特待生となる。 1941 再興第28回院展に「織田忠信」が初入選する 1943 再興第30回院展に「陸奥の宿」が入選し、院友に推挙される。雅号を「多々志」とする。 1954 総理府留学生としてイタリアに2年間留学。 1960 鎌倉円覚寺金堂の天井画「白龍」を完成させる。 1967 法隆寺金堂壁画の再現模写に加わり、第十号壁「薬師浄土」を担当する。 1972 文化庁より高松塚古墳壁画模写を委嘱され、東壁の女性群像を担当する。 1974 日本美術院同人に推挙される。 1976 飛鳥保存財団に委嘱され、高松塚壁画館に展示するための壁画模写に総監督として従事する。 1979 「金太郎」を制作(第34回春の院展出品)。高野山金剛峰寺別殿の襖絵(8室82面)を3年かけて完成させる。 1980 日本美術院評議員となる。 1981 カトリック教会東京大司教区の依頼により、屏風「ジェロニモ天草四郎」を制作。ヴァチカンでヨハネ・パウロ2世に謁見し、献呈する。 1984 在日ヴァチカン大使館にて聖シルベストロ教皇騎士団勲章の伝達を受ける。 1991 神社本庁の依頼により「平成御大礼絵巻」を制作。翌年に完成 1994 モロッコの首都ラバトの王宮ギャラリーとパリのルーブル美術館新館カールセル・ド・ルーブルにおいて、「平成御大礼絵巻海外特別展」が開催される。 1996 文化功労者の顕彰を受ける。 2001 大垣市守屋多々志美術館が開館する。文化勲章を受章。 2003 逝去。享年91歳。 ◎金太郎◎ 気は優しくて力持ち。そのようなイメージを持った金太郎は、昔話として架空の話と思われがちだが、平安中期の武将「源頼光」に見込まれて頼光四天王の一人として活躍した坂田金時(公時とも書く)がモデルだといわれている。作者である守屋多々志は金太郎を題材とした作品を何点も描いており、中でもこの「金太郎」は第34回春の院展に出品された後も何度か展覧会に出品され、お目にかかることが多い。 さて守屋の画業の中心は、歴史上の人物や史実を描く「歴史画」である。ただし史実を絵で描くと言っても、そのほとんどの時代を目にしてはおらず、人物や場面は多分に想像するしかない訳であり、それをどのように解釈し、どのように描くかが歴史画家のの最大の命題と言ってもよい。そのような各々の解釈の中にあって逸脱してはならないのが当時の風俗であり、金太郎が持っている兜を見るとよく分かる。金太郎は父親の兜を持っているという設定で守屋は描いたようだが、平安中期に実在したとされる金太郎が、それ以降の様式の兜を持っていてはいけないわけである。守屋はそういった点を丹念に調べるべく様々な武具・宝物が納められている寺社などへ写生旅行へ行き、正確な歴史考証を心がけていた。 また細部にもこだわっている。服装、絨毯、壁の文様などを気が遠くなるなるような細かさで描き出すのが守屋作品の特徴といってもよいが、この作品についても、兜の吹返にある文様の細かく精密な描写は我々を魅了して止まない。 小さな金太郎の堂々とした態度と、上目遣いでユーモラスな表情の対比が面白い。しかしその眼差しは、更なる高みを見据えるが如くにも見受けられ、終生画業の向上を目指していた守屋の心を反映したものと見て取ることもできるのではないだろうか。 (*作品解説より抜粋) |
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