臼田亜浪『夢の世は』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||
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臼田亜浪
作
『夢の世は』
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商品解説・作家略歴 |
【作者略歴】 ■ 臼田 亜浪(うすだ・あろう)■ 明治12年(1879)2月1日、長野県北佐久郡小諸町新町に文次郎の長男として生まれる。本名卯一郎。別号、石楠堂書屋人・北山南水楼。 祖父の代までは鍛冶を営み、父は農業をする傍ら、役場の書記を勤めた。また文筆に優れていたという。 母さいは、亜浪が4歳の時亡くなり、翌年継母かねを迎えている。 小諸小学校西舎に学び、明治27年(16歳)卒業。その頃より中村嵐松親子に月並俳句を学び、一兎と号した。 また、その頃は父譲りの書をよくし、藩儒角田氏について漢籍を学んだり、浅間山を登って石楠を堀り、家の南庭に植え、浅間山の霊化と言って愛したという。 28年には小諸義塾に学び町役場に勤務。その頃の小諸義塾には島崎藤村が教師として勤めており、そこで藤村は信州の風景を写実的に描いた「千曲川のスケッチ」を書いている。その後亜浪は29年(18歳)上京、工談会に寄宿する。30年、工手学校予科、31年明治法律学校と転々としたが、病を得て一時帰郷した。32年、再び上京し同郷の政治家石塚家に寄寓。この頃より俳句熱が高まり、日本派の作風に親しんだ。 34年には和仏法律学校(現法政大学)に転じ「文庫」に句を投じている。冬には帰郷し深井すてと結婚。その頃から短歌を与謝野鉄幹、俳句を高浜虚子に教えを乞うている。 36年7月に継母を失い、9月には妻を伴って上京。靖国神社前に家を構え、寄宿舎羅漢洞を経営。同郷の青年たちを止宿させた。しかし、この頃の生活は苦しく、しばしば妻と争い、俳書を截ち捨てた事もあったという。 37年、法政大学卒業。38年麹町三番町に移り、茅原崋山主筆の雑誌「向上主義」の編集にあたり、翌年電報新聞社に入社、政治部を担当し、7月には社会部長となる。その後、大阪毎日との合弁により毎日電報となり、経済部に転じた。 41年「横浜貿易新報」編集長、42年「やまと新聞」編集長とジャーナリストとして活躍する一方、石楠の筆名で「西郷南洲」に関する著作を刊行している。 大正3年(36歳)の時、腎臓を病み信州渋温泉に静養中、偶然虚子に会い、俳壇への復帰を決意し、「ホトトギス」子規13回忌記年号に「俳句に甦りて」を寄稿する。10月には大須賀乙字と知り合い新しい俳句雑誌の創刊を計画した。目的は有季定型の新傾向俳句を作り出す事だった。11月「石楠社」を設立。第1回句会を開いた。 そして乙字の援助を得て4年3月には俳誌「石楠」を創刊。生活に根ざした感情を自然観照と一体化するのを目的とした。翌5年にはいっさいの業務を絶って俳句に専念する事になる。 昭和15年、軽い脳溢血に倒れたが後に復帰。しかし昭和26年、3度目の発作に倒れ、意識不明のまま11月11日死去。中野の宝仙寺に葬むられた。73歳であった。 句集に「亜浪句抄」(対象14年)「旅人」(昭和12年)「白道」(昭和21年)などがある。 【掛け軸寸法・体裁】 ■寸法 縦112cm×横52cm ■絵寸法 縦130cm×横40cm ■表装 二段表装 ■本紙 紙本 ■軸先 木製 ■箱 桐箱収納 ■拓本作品 |
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