歌川広重『日本橋・朝の景(軸装)』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||
| ▲戻る 掛け軸のホームページ > 木版画 > 日本橋・朝の景(軸装) > 歌川広重 | ||||||||||||||||||||
|
歌川広重
作
『日本橋・朝の景(軸装)』
|
|
商品解説・作家略歴 |
◆歌川 広重(Hiroshige Utagawa)◆ 1797 寛政九年、江戸・八代洲河岸火消屋敷の同心、安藤源衛右門の子として誕生。 幼名・徳太郎の後、重右衛門、又は、徳兵衛とも称す。 1811 15歳の頃、歌川豊国の門に入ろうとしたが、門生満員で拒絶され、歌川豊廣に入門する。 1812 歌川の姓をゆるされ広重の名をもらう。 1830 「一幽斎廣重」と改め、花鳥を描いていたが、豊廣の死後、風景画を主に制作した。 1832 「一立齋」と号を改める。 幕府の行列に加わり、上洛する機会を得て、翌年、『東海道五十三次絵』が誕生。大評判をよぶ。 1834 「東海道五十三次」完成。大評判をよぶ。 1838 「木曾街道六十九次」に参加、七十枚中四十六枚を描く。 1841 甲州に旅する。「立斎」を用いる。 1842 「甲陽猿橋の図」「行書東海道」「狂歌入東海道」など。 1843 「東都名所」完成す。 1849 「隷書東海道」 1853 「不二三十六景」 1856 「名所江戸百景」はじまる。 1857 「六十余州名所図会」完成。「雪月花」「阿波鳴門之風景」 1858 「名所江戸百景」完成。 安政5年9月6日、疫病(コレラ)により逝去、享年65歳。 辞世 東路に筆を残して旅の空 西の御国の名所を見む ◎日本橋(朝の景)◎ 東海道五十三次の開幕の絵である。むかし風にいえば江戸から京都まで百二十四里半の旅の振り出しは、ここからである。広重は、この劈頭第一の絵を実につつしんで描いている。木戸の門扉を両方に開いた構図は開巻の絵としてまことにふさわしい。しかも画題は「朝の景」とある。そして日本橋を何のケレン味もなく真向かうから描き、「お江戸日本橋七ツ立ち」の大名行列が毛槍をたかだかと立てて今しも橋を渡ろうとしている。なにからなにまで新しい続絵の発足である。また左手に見せた魚河岸の朝市の買い出しをすませた魚屋の群の描写も活気にあふれる朝の空気である。朝みどりの空、朝やけの色、これも晴れやかに爽爽しい朝の色である。右手の犬二匹にも江戸を感じさせるものがあり、広重は他にも日本橋の景を二十種以上描いているが、この図にまさるものはない。 この絵には異版がある。初版があまり売れたので新しく版をおこしたのかもしれないが、それは、全体の背景的構図は初版とよく似ているが、端の手前に住吉踊り、魚屋、花売りなどの群集が描かれ、画面は混雑して初版の静かなうちにも活気ある朝の景色とはおよそ比べものにならない作品である。この絵の画題は「行列振出」となっている。 この日本橋の図を見て、現在の日本橋のあまりの変わりようには驚くより外はないが、日本橋は慶長八年に架けられた橋で、お堀から隅田川へ流れる日本橋川に南北に架けられ、今日の石橋になるまでに十一回も修理、架け替えが行われている。日本橋の名称については諸説があり、日本の中心であるとか、橋上から日の出が見られるからとかいわれる。「江戸名所記」には、「橋の下に魚舟、槇舟数百艘こぎつどひて日毎に市を立る。橋の上より見れば四方晴れて景色面白し、北に浅草東叡山見ゆ。南にふじの山峨峨とそびえ、嶺は雲にさし入て、鹿の子まだらに降りつむ雪までのこりなく見ゆ西のかたは御城なり。東には海づらちかく、行かふ舟もさだかに見えわたれり」とあるように、北は室町、南は通町、端の南に高札場(絵にもある)があったが、なによりも東にあった魚河岸の繁栄は江戸名所の一つであった。今日橋の中央に立つ道路元標は全国へ至る道程の基点となっているが、それさえ今日では高速道路の鉄骨の中に埋もれている。 |
| [ HeRO Skin Ver 0.12 ] |
