横山大観『無我』の掛軸をディスカウントの特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
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横山大観作 『無我』
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商品解説・作家略歴 |
【掛け軸寸法・体裁】 監修:横山隆(横山大観記念館理事長) 原本所蔵:東京国立博物館 版式:特殊オフセット多色刷・シルク補色 用紙:代用絹本(化繊) 表装形式:三段表装 製作:共同印刷(株)美術商品部 【材料】 天地:白茶無地緞子 中廻し:薄茶地牡丹唐草文緞子 風帯・一文字:二重蔓唐草文金襴 軸先:花梨 箱:柾目桐箱・タトウ入り ■寸法 縦185cm×横63cm ■絵寸法 縦74cm×横43cm 【作者略歴】 ◆横山大観(Taikan Yokoyama)◆ 1868 水戸藩士酒井捨彦の長男として生まれる。 1885 東京英語学校に入学、その傍ら、渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。 1893 東京美術学校卒業。 1896 京都市立美術工芸学校予備科教諭を退職。東京美術学校助教授となる。 1901 菱田春草と、九州・北陸各地へ写生旅行。 1904 春草らと共に渡米。ニューヨーク、ボストンで作品展開催。 1905 春草らと共に渡欧。ロンドン、ベルリン、パリで作品展を開く。 帰国後、春草と連名で『絵画に就いて』発表。 1907 文展審査委員。国画玉成会評議員となる。 1913 日本美術院を再興する。 1924 下村観山、竹内栖鳳、川合玉堂らと淡交会を結成。 1930 イタリアに美術使節として出発。 1935 帝国美術院会員となる。 1937 文化勲章を受章。 1940 紀元2600年奉祝記念展に『山に因む十題・海に因む十題』を出品。 1957 作品『不二』絶筆となる。 1958 逝去、享年89歳。(数え年、91歳) 【作品解説・掛軸】 ◎無我◎ 大観は明治26年東京美術学校第1回卒業生として日本画家の第1歩を踏み出す。卒業制作で86点を取り、教授の橋本雅邦から助教授に望まれていたが、学科がだめでビリから2番目、折角の話を棒に振ってしまった。 一方校長岡倉天心は、新卒者が生活していけるかどうかが心配で、時代にふさわしい新日本画を生み出そうと真剣であった。明治28年、意匠研究会遂初を興したり、同29年日本絵画協会を組織して新たに開発を図る部を設け、そこへ新卒者をスタンバイさせて学校派(新派)ともゆうべき新画派形成に向かったのもそのためであった。そこではフェノロサの主張に始まり、美術学校の科目で最も重要視された新案即ち意匠(構想・構成の意、言語デザイン)が尊ばれた。 意匠研究会では月ごとに、例えば夢・寒空・荘重などといった抽象的テーマを課した。これには雅邦が口癖のように説いた「心持ち(精神性)」を表すための試みであった。京都で古名画の模写に励んでいた大観は、明治29年3月に帰京するが、翌月の遂初会の課題が「無我」であった。無我とは仏語で、世の無常に己の存在を否定する意であるが、大観はそれを幼児の天真爛漫の姿に見立てたのである。くわい頭の童子が奈良時代のきょうけちのほうをルーズにまとい、大人の草履を引き摺っている。あどけない顔は何処を見るでもなく、殆ど呆然とあらぬ彼方を見つめている。足下にはすみれが咲き、川辺では猫柳が春を待ちかねて蕾を膨らませている。何よりも河水のブルーが見の覚めるようにさえている。心為しか猫柳も春風に揺れているようだ。明治30年春の日本絵画協会第2回共進会に出品され銅賞麻牌をうけた。「報知新聞」は「無我は無我にあらず大いに野心を筆致に存するに似たり」とその発想の妙をたたえている。 (*作品解説より抜粋) |
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