山岡鉄舟『真蹟拓本』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||
| ▲戻る 掛け軸のホームページ > 拓本 > 真蹟拓本 > 山岡鉄舟 | ||||||||||||||||||||
|
山岡鉄舟
作
『真蹟拓本』
|
|
|
|
商品解説・作家略歴 |
■山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)■ 1836〜88 幕末期の剣客、明治期の政治家。通称は鉄太郎、本名は高歩(たかゆき)。 幕臣の小野朝右衛門の5男に生まれる。 幼少は父の赴任地飛騨でそだち、このとき高山で井上清虎に一刀流の剣術をまなんだ。 のち、槍術家の山岡静山の妹と結婚し、山岡家をつぐ。静山の弟が幕臣、高橋泥舟(でいしゅう)で、勝海舟とともに幕末三舟とよばれた。 やがて幕府の講武所で剣術を指南し、1863年(文久3)から浪士組(のちの新選組)の浪士取扱いとなり京都に赴任するが、攘夷派(→ 尊王攘夷運動)の清川八郎らと対立し、江戸にもどる。 1868年(明治元)徳川慶喜の警固にあたる精鋭隊頭に任じられ、慶喜が恭順の意思をしめしていることを官軍に知らせるため、勝海舟の使者として、駿府の西郷隆盛のもとへ単身むかい、徳川家の存続を説いた。 これにより、勝と西郷の会見が成立し、江戸開城への道が開かれることになった。 明治時代になると、静岡県権(ごん)大参事、茨城県参事、伊万里県知事を歴任。 1873年からは明治天皇の側近として侍従や宮内少輔(しょうゆう)などをつとめた。 また、この間、無刀流を創始して道場も開いている。 墓はみずから創建した全生庵(東京都台東区)にある。 鉄舟は書家としても有名で、逸話も多い。金貸しが鉄舟に1000円をかし、数日後、証文を書いてくれるよう要求すると、鉄舟はあり合わせの紙に「なくて七癖わたしのくせは、借りりゃ返すがいやになる」と大書してよこした。 あきれた金貸しがその書をもちかえり、ある人にみせると、「書といい、文句といい、まことに絶品だ」といって、1000円でゆずってくれとたのんだ。 金貸しは、売らずに家宝にしたという。清水次郎長と交遊があったことも有名である。 |
| [ HeRO Skin Ver 0.12 ] |
