和光『福沢諭吉・修身要領』を特別価格で販売致します【アート静美洞】 | ||||||||||||||||||||
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和光
作
『福沢諭吉・修身要領』
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商品解説・作家略歴 |
■福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)■ 1835年(天保5年)から1901年(明治34年) 大阪堂島の中津藩蔵屋敷に生まれる。生後一年半で父の病死にあい、一家は郷里中津に帰る。しかし、封建の門閥制度に矛盾を痛感した彼は、青年期に入るや、まず、学問の新天地を求めて長崎におもむき、ついで大阪の蘭学の大家緒方洪庵の塾に入って、蘭学の修業に励んだ。 安政五年(1858年)、江戸に出て築地の中津藩邸内に塾を開く。後の慶應義塾のもとである。ほどなく彼は、すでに蘭学が時代に適せぬことを知って英学に転じ、独学で英学の先駆者となった。幕府の遣外使節団に随行して三回洋行した経験や、原書の知識に基づき、『西洋事情』(慶応二ー明治三年刊)以下多くの西洋紹介書を公にして、その名を天下に知られるに至る。 明治維新(1868年)の時、新政府から再三出仕を勧められたが受けず、もっぱら民間にあって、慶應義塾の教育と、国民啓蒙のための著作とを使命とする態度を変えなかった。慶應義塾は発祥地の築地から一時新銭座に転じ、さらに明治四年三田の現地に移った。その間、日本最大の洋学校たる地位を確立、出身者は全国新文明の指導者となった者が多い。 また、『学問のすすめ』(明治五年ー九年刊)や『文明論之概略』(明治八年刊)などを通して、明治初年から十年ごろまでのわが国開明の気運は、福澤によって指導されたといっても過言ではない。 明治十五年(1882年)には『時事新報』を創刊して、新聞人としても多大な成功を収めた。晩年の著作の『福翁自伝』(明治三十二年刊)は、日本人の自伝文学の最高峰として定評がある。明治三十四年(1901年)二月三日、数え年六十八歳で没した。 ◎修身要項(慶応義塾)◎ 慶應義塾社中の修身要項は明治33年2月、当時の塾生の質問に答えるために、福澤諭吉門下の高弟6名が起草し、本人が閲覧し重要点を注意された上、塾生に示したものです。こちらの書はその一節を書いたものです。 ここで繰り返し述べられている「独立自尊」こそが慶應義塾社中の修身要項の基調となり、福沢の教えとなっています。 『人は人たるの品位を進め智徳を研きますます其光輝を発揚するを以て本文と為さざる可らず。吾党の男女は独立自尊の主義を以て修身処世の要領と為し、之を服膺して人たるの本分を全うす可きものなり。 心身の独立を全うし自ら其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と言ふ。』 |
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